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■ 「大石寺信仰の面目は何処に」2009. 4. 1

是正協議会の代表世話人から執筆の依頼があった。早い話が、顕正会是正のための提言を書け、ということなのであるが、元来が面倒臭がり屋のわたくしは断わり続けてきた。しかし、面倒であること以外にあえて理由を挙げるとすれば、現在の顕正会における最大の問題は本尊疑惑であり、これに比べればその他のことは物の数ならずである。ゆえに是正協議会が最初に行なった、浅井先生に対する質問状の提出にすべては尽きており、あとは蛇足みたいなものだ、というのがわたくしの正直な感想である。

しかし、もしかしたら最近の若い顕正会員は、事の重大さに気がついていないのではあるまいか、という気がしないでもないので、御本尊のことがどれほどの重大問題であるかを、この際だから浅井先生に語ってもらおうと思う。以下、少しばかり長い引用であるが、ぜひとも熟読玩味されたい。


 かの寺の開山は、日興上人の弟子そして大石寺塔中上蓮坊(百貫坊)の住職であった摂津公日仙師、ゆえにこの「本門寺」はその創設より、大石寺の清純な信仰を貫いてきた寺院である。
 ゆえに正保の頃、重須本門寺が横車をおしてこの高永山本門寺に対して、本門寺の寺号を廃し法華寺と名乗るべきを強要した時、高永山本門寺の秋山日教は江戸寺社奉行に陳弁状(富要九・一三六)を提出して云く
 「高瀬・高永山本門寺の山号・寺号は、忝くも開山日仙上人御付け成され候寺号にて、三百余年呼び来り候所に、末代に至り其の寺号を替え申す事、開山冥慮のほど怖しく存じ奉り候」と。
 さらに後年、重須が再びこの本門寺を圧伏せんとして、高永山本門寺が重須に随従せぬは大石寺より本尊を申し請ける慣習のゆえと、これの禁止を奉行所に訴えた時、高永山本門寺の日昇は答書(富要九・一六二)して云く
 「大石寺の本尊受け候儀は、銘々帰依に任せ候儀ゆえ、拙寺より指図いたし候儀は之無く数百年来の事にて、其の始めは相知れ申さず、他門より受け候儀は之無く、大石寺儀は同門の上、開基日華・日仙両上人の旧跡も之有り、旁た以て拙寺には因縁之有り、殊に日蓮聖人一期弘通の大事たる本門戒壇の本尊之有るゆえ、檀家ども往古より一同信仰いたし候儀にも之有るべく……」と。まさに純然たる大石寺の信仰、文面に躍如たるものがある。


これは叱呵痴犬抄と題する昭和六十一年の浅井先生の文章である。この執筆の背景などは特に関係がないので省略するが、上掲には大事なことがたくさん書かれていることがよくわかるであろう。あえて説明の要もないほどである。

わたくしの思うに、これは当時の浅井先生の、純然たる大石寺信仰を証するものであり、面目躍如である。おそらくは現在の宗門僧侶ないし法華講員が読んでも少しも違和感がないだろう。逆に現在の若い顕正会員たちがどのように感じるか、それが心配だ。

ここで今さらながらであるが、折伏理論書の初版を紹介しておこう。


 やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。


御遺命守護云々には異論があるにせよ、他の部分は前掲の叱呵痴犬抄と同様、純然たる大石寺信仰に基づく記述である。それが改訂版でどのように変化したか、ここではあえて書くまい。ともかくも、顕正会における大石寺信仰の面目はいったいどこに行ってしまったのだろうか、というのがわたくしの偽らざる感想である。(G)